すごく久々のブログですが、こんなゆるい内容で書いてみます。
でも、もしかすると、これを知らない人がいるかも知れないので、いくつか理由をあげてみましょう。
理由1:出身
まずはゆるい理由から。
松尾芭蕉は伊賀出身です。伊賀上野です。伊賀忍者のふるさとです。そして江戸時代の幕府隠密といえば伊賀忍者です。
もっとも忍者って、漫画とかの派手なイメージとは違って、主に調査活動などをおこなっていたみたいですけどね。
理由2:出仕
若い頃には、服部半蔵の従兄弟の一族に仕えていたことがある(らしい)。
なんかちょっとつながりが見える気がしなくもないですね。
理由3:歩き過ぎ
有名な「奥の細道」ですが、不思議な点がたくさんあります。
まず、歩くスピードと距離が半端じゃない。
「奥の細道」の旅程はなんでも600里にのぼるそうです。1里が約4kmなので、2400km。歩き過ぎです。しかも、その旅の中で芭蕉は1日に十数里山道を歩いたこともたびたびあったようです。十数里って、50km以上ですよ。山道を。
しかも、当時45歳の芭蕉が。江戸時代の45歳ですよ。
僕も大学時代に福井の実家から能登半島の先までちょこちょこ歩いたことがありますが(たまに電車とかバスも使いました)、1日に歩けるのはせいぜい30kmちょとでした。
松尾芭蕉の健脚ぶりはちょっとすごすぎる。隠密として小さい頃から訓練を受けていればこそではないでしょうか。
理由4:旅の資金
「奥の細道」の資金はどうやって捻出したのでしょうか。
道中は弟子である河合曾良が一緒。2人はかなりの夜をちゃんとした宿に泊まっていたといいます。
お金がないとこんな旅はできないんですよね。一介の俳人にそんなお金を捻出することは可能なのでしょうか?
幕府から旅費が出ていたと考えるとしっくりきます。
理由5:西行法師に憧れていたのに
松尾芭蕉が西行法師を崇拝していたことは有名な話です。その西行法師が句を読んだ藤原実方の墓がある笠島(現在の宮城県名取市)に行っていないこと。
「大雨でたどり着けずに泣く泣く諦めた」ということになっているらしいのですが、旅歩きが目的であるならば、雨くらい待てるはず。本当に西行法師に憧れて、旅をスタートさせたのであれば、滞在し、雨が止むのを待つはずです。
笠島は仙台に行く途中の道。急ぎの用があり、ゆっくり滞在して雨が止むのを待つことができなかったのではないかと考えることができます。
理由6:松島
芭蕉は松島に1泊しかしていません。そして一句もつくっていません。
「松島やああ松島や松島や」は芭蕉の句とされてきましたが、最近では実は別人の句であるという説が有力なようです。
旅前には松島に行くことをとても楽しみにしていたといいますから、ちょっとおかしいですよね。
他の場所の中には10日以上も滞在したことあるのにね。
理由7:仙台城大手門
僕が考える理由としては、これが1番大きい。
松尾芭蕉は仙台城に立ち寄っていますが、この際の入城が決定的なんです。なんと、芭蕉は大手門から入城したとのこと!
どうも、この大手門というやつは、かなり身分が高くないと通ることができないようなんですよね。大名とか、幕府の使いとかしか通ることができない門なんです。幕府の使いとか?!そもそも一介の俳人である松尾芭蕉がこの門を通過することが許されるはずもない。
となれば、答えはおのずと決まってきませんか?松尾芭蕉の正体も、「奥の細道」の旅の目的も。
つまり、松尾芭蕉は仙台藩の経済状況をさぐるために遣わされた幕府の隠密であり、さらには幕府から仙台藩への言伝を預かった密使であった、と考えることが自然なのではないでしょうか。
そして、その役目を終えた芭蕉は、仙台を後にし、ゆったりと旅を続けたというわけです。
理由8:河合曾良のその後
極めるつけの理由です。
芭蕉の弟子として旅に同行した河合曾良ですが、彼は後に幕府に取り立てられ、諸国の様子を調査する役人になったとのことです。けっこう謎の多い人物のようで、芭蕉と別れて後のことはあまりわかってないようですが、少なくともどこかの時点でお役人になったってことですね。どこにそんなパイプがあったんでしょうかねえ。
以上、まあよく知られたことをつらつらと書いてみました。
もちろん、本当のことはわかっていませんし、現状では松尾芭蕉隠密説は「そんな説もあるよね」程度でしかありません。
でも、少なくとも僕は信じてますよ。
とは言え、幕府の隠密であろうとなかろうと、松尾芭蕉が稀代の俳人であったことは間違いないんでしょうけどね。
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